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だれかの足跡

2016.12.19

最近、早く歳をとりたいと思うようになった。おばあさんになりたい。

ほんの少し前まで老いることが怖くて若くいたいと考えていたりしたのに不思議なものだ。自分の中での勝手なおばあさんというものの想像は日々穏やかで、誰かといがみあうこともなく、日がな一日何かぼんやりともの思いに耽りながらも淡々と流れゆく時に身を任せている。これは想像と呼ぶよりもむしろ理想と呼ぶに相応しい。

何にも煩わされず、明日を恐れず、淡々と日々を過ごす。傍にもしも長年添い遂げた夫がいるのならばそれ以上の幸福はないだろう。縁側や公園の日の当たるところで穏やかに生きながらにして死を待つような、そんな日々。

そんな日々を過ごすご老人は少ないかもしれない。きっと嫁姑がなんだ、孤独がなんだ、年金云々カンヌンと悩みも多く、何かにイライラしながら暮らしていることもきっとあるだろう。

それでも、私は日向にぼうっと座る白髪の老婆となった自身を夢見ずにはいられない。あまりにも流れゆく月日のはやさ、環境の変化に心がついていかなくなってしまった。

今までの穏やかで柔らかだった私の日々は、仮面を覆い、武装し格闘するかのごとくにもがきながら会社に行くことに、勤める日々へと変化した。私は私から置いてけぼりにされてしまった。突如、私が何者かわからなくなり、頭がおかしい人がいると自覚してしまった瞬間全てがばらばらと崩れた。生まれて初めて、本当に明日を望まない日々が続いた。死ぬ勇気などない、ただ、私を今すぐここから消してくれる魔法がないかと、襲いくる不安の中で願った。

幸いにも私には家族がいた。私を生かそうとしてくれる周囲がいた。発狂し暴れもがく私を抱きしめてくれる母がいた。二十歳を超えてもいつまでも甘えてしまっている自分に気がついた。しかし、それでも、なんでもいいから生きなくてはならないと時折思うのだ。

仕事を休み、日がな一日好きなことをしてみる。好きなことだけを考える。いや、考えないようにすることが必要でもある。考えること、妄想や空想が趣味であり習慣の私にとってはとても難しい。今でも考えてしまう。私はあの場所に戻ってまともに働けるのだろうか、と。皆が働いている時間に温かい飲み物をのみぼんやりとしている私は何をしているのか、と。自身を優しさに、あたたかくぬるい環境に置けば置くほど戻れなくなるのではないか。私は怠けているだけなのではないかと。

優しくあたたかな環境の中で蝶よ花よと育てられたことに心から感謝し、今も守られていることを感じ、自身の環境についてなんて恵まれたものだと思う一方で、私はこのまま一生弱いままなのかと不安になる。

お金を頂いて働くということは、それこそ血の滲むような苦労と涙を伴うものだろう。そこに少しの喜びが時折紛れているのかもしれない。しかし、私は苦労や涙を伴うことが出来たとしても、自分が自分でいられなくなるような、常に何かを演じながら働くことに疲弊してしまった。いつかすべてに慣れていくのだろうか。私は強くなるのだろうか、鈍くなるのだろうか。

今隣でコーヒーか何かを飲んでいる女性は、斜め前でせわしなくパソコンを打ちながらアイスコーヒーを飲むあの人は、何を思い生きているのだろう。

だれか私に教えて欲しい。私は、なんのために、これからどうやって生きていくのか。誰も答えてなどくれない、答えのない問いに自問自答続ける。そして気づく。考えてはいけなかったのだ、と。

この世で最も難しいことの1つは、きっと、何も考えないということ。だから、白髪の老婆となった自身に思いを寄せて温かい飲み物を飲むしかないのです。




白髪の老婆を夢みて。